山口百恵 唯一無二の人 20歳イヤーから恋人宣言へ  

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1978年という年は山口百恵にとって黄金の年でした。

その年末「紅白歌合戦」でのトリとして、ジュリーと共に務め締めくくった山口百恵。

そして、百恵ちゃんは二十歳になり、ますます美しさと歌唱に磨きがかかっていった。m-ponは強烈さを感じたのものです。その頃の世の中で大人になることは、ましてより輝き、ずっとずっと落ちつく成熟する人になることだった。子供心に「二十歳」になるというのはスゴク大人になること階段のようなものだと思っていたものです。

しかし、なにが、なにが・・自分は二十歳になっても、ちっとも大人にならず(*ノェノ)

あの二十歳の大人のきらめきは「山口百恵」だからこそ醸し出せた特別なものだったことに後から気づくのでした・・。
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二十歳にしてこの匂いたつような色気。

1979年3月になり、山口百恵はあの「あなたの○○○が欲しいのです」など口パク部分が話題になった「美・サイレント」を発表。

両A面扱いで、「曼珠沙華」が裏という最強カップリング・シングル。

m-ponは、数多い山口百恵のシングル、そしてアルバム曲の中でどれか一曲選べと聞かれたら、迷いに迷ってしまうでしょう。

それも傑作をひとつと言われたらとてつもなく難しい。それでも一番、思い入れ、そして当時「では好きだった曲は?」と尋ねられたら、実はずっと答える一曲はこれだと思い続けている曲がある。

それがこの「美・サイレント

その理由は三つあります。

①ともかく、当時、この曲を白いボディコン・スーツを着て華麗な色気のあるマイクさばきで、しかも無表情で歌う百恵さんがまず超美しかったこと。


②歌詞の意外性もだけれど、私は、この曲の阿木さんの書く「神秘性」が、百恵さんのその頃の匂いたつような色香と見事に溶け合った感がしたこと。

これは当時、私の妹が語った勝手な解釈ですが・・・

この「美・サイレント」の歌詞は、まるでショウ・ウィンドゥの中のモノを言わないマネキンが、外を通る1人の男性に恋をするまるで神秘的なラブ・ストーリーのようにもとれると妹が何気なくいったこと。

『はかなさ、永久に叶わぬ恋の悲しさを表しているようだ』と。

なるほど~。言われてもみれば、たしかにマネキンは話さない。まさしく静粛。サイレントの世界でもある。


そんな様々な憶測も相成って、その神秘な物語にゾクゾク。山口百恵は、そんな誰もが自由に解釈し、それぞれソッと秘密にしておきたいような物語を歌と表現力で見事にこなしてしまう。


③この曲を聴くと、個人的にだけれどあの頃、すなわち1979年の春にストーンとタイムスリップしてしまうこと。

何もかも、輝いていた春の息ぶき。沢山の友達良い曲ばかりラジオからも流れていた時代。それが強烈に思い出されるからなんです。
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両A面のもう一曲「曼珠沙華」を始めて聴いた時の感動も忘れられない。

私は「プレイバックパート2」から、何故か「絶体絶命」だけを省いてすべて百恵ちゃんのシングルを買っていた。正直、B面(これは両A面扱いだったが)でここまでリピートした曲はなかった。

当時、小学の高学年に歌詞の深い意味など理解出来る訳もない。だが山口百恵の歌唱力が格段に上がってきているのはすでに感じていたし、若い世代を飛び抜け超えたような曲をカップリング出来るなんて、当時の山口百恵とそれを取り巻くスタッフの力は他のアイドルとは違うなあと子供心にピンと直に感じたものです。

この頃、m-ponはクラスの学級新聞係で、毎月学級新聞を作りそこで芸能人の人気投票を掲載していたことがある。

みんなにメモに配り、男女好きな歌手や芸能人を1位から3位まで書いて貰うというもの。毎月、教室に張り出される新聞で私はその作業が楽しくってしようがなかった。

そして、その頃のクラス「女性部門」の1位、2位は、山口百恵とそして、もう一人は誰だったと思いますか?
それはピンク・レディーでも桜田淳子でも、当時、人気アイドルだった郁恵ちゃんや石野真子でもない。

山口百恵といつもトップを争っていたのは、そう、「渡辺真知子」だったのです!

78年79年は、ニュー・ミュージックの人気が新勢力。オマセな小学生、特に女子は渡辺真知子を「真知子さん、真知子さん」と呼んで、上に姉や兄がいる子はアルバムまで持っていた。

そう、「ザ・ベストテン」でも山口百恵渡辺真知子八神純子などは常連で、むしろ他のアイドルの曲はずっとランキングでも下の方なんて事も普通に多かったのです。

たとえ若い人たちから人気があっても楽曲が良くなければ、上位には決していけない。それくらい様々なジャンルがひしめき合っていたチャートであり、皆に歌われ皆にレコードが買われこその日本の音楽界でした。

山口百恵の特筆すべきところは片や「アイドル」と呼ばれながら、その枠は堂々とニュー・ミュージックのシンガーとも張り合ってたところなんですよね。

こういうアイドルは山口百恵だけだったshinayak.jpg

そして、山口百恵は6月に「愛の嵐」をリリース。当時、流行だったウルフ・カットに真っ赤なドレスで歌う山口百恵の情熱は今でも「夜のヒット・スタジオ」などのDVDでも顕著に見ることが出来る。その潔い美しさに、うっとりと驚嘆してしまう。


ただ、この「愛の嵐」が出た時のインパクトは、あのリリース時はそんなに強いものではなかった。もう、この頃になると、次はどんな曲が飛び出してくるのだろう?とファンの期待が逆に高まり過ぎていた気がする。

そして、これは全盛期のピンク・レディーやジュリーにも言えることだったように思う。

ジュリーが「TOKIO」でパラシュートまでつけて出てきた時は、子供心に「ここまでやらなきゃいけないのかなあ」と思ったり。それだけ実力のある歌手やシンガーであってもやっぱり人気を持続させるのは大変なことだったのだ。

後に作曲の宇崎さんも語っておられたが、「毎回、山口百恵の新曲を生み出すプレッシャーはハンパなかった」という。個人的には山口百恵には、阿木さん宇崎さんコンビ以外でも、もっともっと冒険して貰いたかったと思うのは、今だからこそ言える要求なのかも知れません。

むしろ、この頃は後にCD化やリマスターになり、ずっと当時より評価されることになるアルバム「A Face in a Vision」「L.A Blue」などを発表。そのことがなにより嬉しいことでもある。

どちらも完全にアイドルの枠を超えた「名盤」と呼ぶに相応しい70年代を代表しても良いアルバム

そして9月に「しなやかに歌って」を発売。

最初、平凡の付録「平凡ソング」に「急遽、百恵の新曲発表!」と発表された。

しかしそれは後に引退後に発売された「あなたへの子守歌」の方だった。その後、『百恵の意向もあり、こちらに変更になりました』と改めて表されたのが、現リリースの「しなやかに歌って」でした。

皆さんの知ってる、あの正に「赤」や「黒」といった情熱の真逆に位置するもうひとつの「」清楚で透明で、しなやかな山口百恵を代表する曲のひとつ。

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そして、この曲のリリース後、ついにあの「恋人宣言」となるのです。


その5へ続きます



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